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「君子入るとして

自得せざる無し」。



自得ということは自ら得る、自分で自分をつかむということだ。


人間は先ず何を得るか、先ず自己を得なければいかん。本当の自分というものをつかまなければならん。


先ず根本的に自ら自己を徹見する、把握する。これがあらゆる哲学・宗教・道徳の根本問題である。


皆それぞれ名前をもっておるが、考えてみたら掛け替えのない天地万物の中に唯一無二である。その独というものは人の世から離れた、寂しい隠者の一人という意味ではなくて、絶対という意味だ。


独立というものは何ら他に依存せず、自分自身が絶対、つまり相対を絶することだ。自主自立して歩くことが独歩である。


そういう意味の独自、絶対的な自己、というものをどれだけ自分が本当に知っておるか。これを仏教では見性という。『論語』ではこれを治己、己を治む。或いは知命、命を知る。これが自得である。

(『東洋哲学講座』より)






食と兵と信(『論語』より)


 子貢が孔先生に政治というものについて質問を致しました。政治の大原則であります。それに対して孔子は先ず「食を足らす」、即ち民の経済生活を十分にする、生活を安定させること。その次は「兵を足らす」、即ち武力・国防力を充実する。最後は民を信あらしめること。信とは良心に従って変ぜぬことです。人と約して違わぬことです。


 そこで子貢がどうにもやむことを得ずして、この三者のうちどれかを犠牲にしなければならないとしたら、先ず何から去りましょうかと申しますと、孔子は兵を去ろう、即ち軍備・武力これを犠牲にしよう。


 そうすると子貢は畳み掛けて、もしどうにもならなくて、尚このいずれかを去らねばならないとすれば、「食を足らす」と「民は之を信にす」と、いずれを先に致しますか。深刻ですね。普通ならば信を棄てる外ないというところでしょう。孔子は「食を去る」、即ち経済生活を犠牲にする外ない。人間というものは昔から皆死ぬものだ。しかし死に代わり、生き代わってこうして続いておる。しかしこの信が人間から無くなると、人間は存立することが出来ない。たとえ武力を去り、経済生活を犠牲にしても、最後まで失うことの出来ないものは信であると断言したのであります。

 誠に人の心眼を開くものであります。

 

 経済生活が発達しさえすれば何も問題はないと考える人々が実に多い。しかし注文通り物質生活・消費生活・経済生活が豊かになれば、人間は進歩して、平和・幸福を楽しんでゆけるでしょうか。福祉制度が整えば果たして人間は善くなるでしょうか。


 経済さえ豊かになれば、文明の施設が整って人間の社会生活が快適になりさえすれば、それが進歩であるというようなことは非常な間違いであります。根本において、やはり我々はどういう精神、心構え、徹底して申しますならば、この自然と人生の厳しい法則に対してどれだけ良心的な自覚自律、すなわち信を持つか。この信を立てるということが人間を永遠に存立させてゆく上の一番根本問題であります。

(『朝の論語』より)







特殊性なくして普遍性はない


 日本人だとかイギリス人、アメリカ人とかいうのはもう古いなどとよく言う。しかしこれは文字通り空論であります。必ず立派な世界市民・国際人は必ず立派な日本人、立派なイギリス人、立派なアメリカ人か何かである。それでなければ立派な世界市民・国際人にもなれませぬ。


 個性、特殊性を持って初めて他の特殊性にも通ずる。これが一般性であります。例えば本当の日本人ならば本当のイギリス人と必ず共鳴する。本当のアメリカ人が本当の日本人を見たら、本当に共鳴するのです。日本人だか、シナ人だか、タイ人だか、なんだか訳が分からぬ国籍不明の日本人などを外国人が見たら実に不愉快に感じる。これは厳粛な事実であります。


 人間というものはすべてそうでありまして、男らしい男なら必ず女らしい女が分かるのであって、男だか女だか分からぬというような男や女では、これは役に立たぬ、本当の人間にならぬのであります。(中略)


 ナショナリズムということはいけない、しかしナショナリティというものは大事である、とこういうことがいつも論ぜられるようになっておりますが、なぜナショナリズムがいけないかと申しますと、これは自分の国民だけをむやみに主張して他を排斥する。つまり排他的民族主義になる。そういうものをショウヴィニズムと申します。これがいけない。


 しかしナショナリティ(国民性)というものは大事である。これなくして世界性、国際性、宇宙性というものは何も出て来ない。やはり日本人は日本の個性、特殊性というものがあって、どこ迄も日本人は日本人でなければならぬ。それでなくて世界市民になれるわけがない。

(『日本の伝統精神 —この国はいかに進むべきか—』より)







「両忘」


 吾々の心身摂養法の第一着手はやはり先哲の言う通り養神です。心を養うことです。心を養うには「無欲」が一番善いと古人が教えて居ります。


 之を誤って吾々が何にも欲しないことと寒厳枯木的に解しては、飛んでもないことです。それならば死んでしまうのが一番手っ取り早い。ぼけてしまうのも好いことになる。そういうことを無心とか無欲とか云うのではない。


 それは吾々の精神が向上の一路を精進する純一無雑の状態を言うので、平たく言えばつまらぬことに気を散らさぬことです。


 吾々の精神は宇宙の一部分であり、宇宙は大きな韻律です。従って吾々の精神もやはり溌剌として躍動して居らなければなりません。


 私はいつも座右に論語を珍重して居りますが、論語の中に孔子の人物を語って実に会心の所があります。或る人が子路に孔子という人はどういう人かと聞いたとき、子路は答えなかった。答え得なかったのかも分かりませぬが、兎に角返事をしなかった。それを孔子が聞かれて、お前何故こう言わなかったか。先生は「憤を発して食を忘れ、楽しんで以て憂を忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」。


 つまり孔先生はものに感激しては食うことも忘れ、努力の中に楽しんで憂を忘れ、年を取ることを知らない人とでも申しましょうかというのです。能く昔から「両忘」、憤を発して食を忘れ、楽しんで以て憂を忘る、この「両忘」を庵や書斎の号に使います。実に味わって尽きせぬものがあります。吾々もこれでなければなりません。


 吾々の一番悪いこと、不健康、早く老いることの原因は、肉体より精神にあります。精神に感激性のなくなることにあります。ものに感じなくなる、身辺の雑事、日常の俗務以外に感じなくなる、向上の大事に感激性を持たなくなる、これが一番いけません。


 無心無欲はそういう感激の生活から来るもので、低俗な雑駁から解脱することに外なりません。






父と子


「父子の間は善を責めず。善を責むれば即ち離る。離るれば即ち不祥焉(これ)より大なるは莫(な)し。」(『孟子』離婁上)


 父というものは子に対して、あまり道義的要求をやかましくするものではない。それをやると、子が父から離れる。父子の間が疎くなる。父と子の間が離れて、疎々しくなるほど祥(よ)くないことはない。


 立派な人がなぜ自分の子を教えないのか。それは、やろうたって、勢いやれないからである。父が子を教えるからには、必ず父自身これが正しいことだと信ずることを子に納得させ、実行させようとするのである。それだけに、それが行われないとすると腹が立つ。子に対して腹を立てれば反って打壊しである。子供は子供で、なんだ阿父(おやじ)、俺に道徳を責めるが、御自分様は何でも御立派というわけでもないじゃないか、と内心おもしろくない。こうなると父子両方で打壊しである。これはいけない。


 だから昔の聖人も子をとりかえて教えたものである。つまり他人に師事させた。(中略)道徳は根本において真実でなければなりません。自然——誠でなければなりません。したがって、のんびりして、明るくなければならないのです。ぎこちなく硬ばっていたり、陰気でじめじめしているのは決して道徳的正ではありません。


 しからば父は子を教えることはできないか。(中略)少なくとも父は子を放っておくより外はないかというと、そんなものでもありません。宗の王安石は(中略)、孟子のここの意味を釈(と)いて、『孝経』には「争子」という言葉さえある。(注=父の不義不正を諫争する子という意味で、喧嘩する子ではない。)ただ、その争も善を責める意味ではなくて、盲従せずに正義を主張することで、父が子に対しても、正しくないことは戒めるだけであると申しております。


 元来父子の間というものは、同じ人間関係(人倫)の中でも、師弟や朋友の間と違って骨肉、すなわち血を分けた間柄、より多く自然的関係でありますから、情愛・恩愛が本領で、理性による批判や抑制である正とか義とかを建前にすべきではないからであります。

(『身心の学』—古教照心—より)









民族の第一義は精神である


「為さざる有るなり。

而る後以て為す有るべし。

学はこれに過ぎず。」(森田節斎)


 どんな学問をするとか、どんな産物を出すとか、或はどんなに経済を開発するとか、という様なことは成る程現実的には重大な問題に違いないけれども、永遠という性命から言うならば、そういうものは極めて儚いものであります。何が民族であるか、という民族の第一義に立てば、いかにして精神、民族精神を養ったか、ということが民族のすべてであって、これはもう東洋では古くから先哲の言うところでありますけれども、長い目で見ると、結局は精神に帰すると思うのであります。

 この精神という問題を表現する一句が、“為さざる有るなり”という言葉であります。(中略)如何なる脅迫や誘惑に逢おうとも、最後は毅然として“為さざる有るなり”という精神を持った民族は決して滅びない。どんな逆境に立っても、必ず復た興る。しかし、今日の日本は正に“為さざる有るなり”ではなくて、“為さざるなからん”としておる。こんな危ないことはない。それを見られて、色々なところから色々な誘惑と脅迫が来ておるのであります。(中略)

 そこでもう当局者の中には、およそバックボーンなどというものは全く忘れてしまって、ぐにゃぐにゃと軟骨になって、出来るだけ妥協して、無事に済ますことが出来るならば、なんとかして無事に済まそうでないか、という様な気分の人々が少なからず出てきておるのであります。正に“為さざる有るなり”ではなくて、“為さざるなからん”としておる。これは裏を返せば、なんでも為さんとすることです。懐柔と脅迫の前には恥づべきことでも何でもやろうということです。これでは日本は立ちませぬ。国運を賭しても、やはり正義は守らなければなりませぬ。(『活額 第一編』—森田節斎とその交遊— より)








由らしむべし、

知らしむべからず


 余は敢えて現代政治家に進言する。「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」と。何を今頃頑冥な!と誹り笑う者が多いであろう。全く意外に多くの人々が「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」とは、民というものは文句なしに服従さすべきで、知らせてはならぬという意味に解釈し、東洋一流の、特に、儒教にありがちの専制政治思想で、民を愚にするの甚だしいものであると排斥し、中には御丁寧に、「民は知らしむべし、由らしむべからず」と直して論ずる者すら少なくない。


 これはもちろん論語の泰伯にある孔子の語「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」に拠るものであるが、たとえ論語を読まずとも、少しく落ち着いてものを考えたならば、これをそんなに解釈できるわけはないと思う。

 苟もその生涯を人道のために捧げて、特に民を思うの余り、非難も迫害も顧みず、政教の改革に熱烈な努力をした孔子ともあろう人が、どうしてそんな民を愚にするような説を吐こうか。


 これは孔子が時の為政者に向かって政治の心得を説いたもので、民衆をして政府の為す所に信頼せしめよ、之に一々わからせる事は出来ないものだ(由らしむべしの「べし」は命令のべし、知らしむべからずの「べからず」は不可能の助動詞)というのである。


 政策が国家非常の要務のために、民衆の自由を制約せねばならぬ場合、或いはまた、大政治家が目先の苟安(こうあん)を望む一般の輿論(よろん)を無視しても、国家百年のために大計を立てるような場合、なかなか民衆の理解や容認を得られるものではない。然しとにかく「あの人」がすることであるから、任せて置こうではないかという信頼は平生において博しておくことは出来る。この民衆の信頼信服が政治家に一番大切なことである。

 「之を道びくに徳を以てし、之を齊ふるに礼を以てすれば、耻(はじ)有って且つ格(ただ)し」である。それを単なる法制と刑罰とでやってゆけば「民免れて耻無し」と孔子は語っている。


 現代の政治家も、実はいろんな法令や組織機構を濫造したりスローガンを濫発したりする前に、為政者自身果たして民の信頼に値するやと反省し、修養することの方が確かに急務である。

(『経世瑣言』─政治の妙處─より)








対照的な民族性——生と老


 日本と中国の民族性を比較すると、その特質に様々の相違があります。


 先づ日本民族の特性のよいところは、何と言っても「純」であるということであります。純であるということは言い換えれば「生」であるということです。(中略)だから日本民族は生を尊ぶ、純粋・純真を尊ぶ。それは古神道をみればよくわかります。何よりも生を尊ぶゆえに明るい。神道の特色は一貫して光明を旨としておるところにある。そしてそれに伴うて清さ、清潔を重んじる。(中略)


 又、完全な生のすがたは言い換えれば完全な調和であって、完全な調和は静かな感じを与える。そこで神道は殊に静謐を重んじる。光明・清潔・静謐、明るさ・清さ・しづけさ、これが神道の大眼目であり、日本民族の個性・本質をなしておるのであります。


 然し(中略)、長所の反面は往々にして短所になる。明るく、清潔で、静謐であるということは、反面において昧(くら)み易く、汚れ易く、さわぎ易いということに外ならない。「生」はよい意味に於いては「き」といいます。「き」は無雑・不雑で、複雑・雑駁でないということでありますが、同時にそれは不完全・未完成を意味する。人間の成長も同じことで、生まれたままではだめでありまして、やっぱり鍛錬・陶冶が必要です。鍛錬・陶冶を失うと、幼稚になり、腐敗します。

 

 これに対して漢民族は、長い間に亘って周辺の異民族を相手に苦労をしてきておりますから、成長しておる、老熟しておる。「生」に対して言うと「老」であります。「老」は年をとる、練れておる、なれておるという意味です。だから酒でも、日本は生一本ですが、むこうは老酒と申します。老酒は、日本酒のように飲んでキュッとこない、まったりと言うか、ほんのりとくる。


    ・・・

 だからなれておる。練れておるということは、よい場合には複雑で、強靭になり、弾力的になるが、悪くすると別の意味で腐敗する、ずるくなる、狡猾になる。(中略)これが堕落して動物的になると獣扁がついて獪、老獪になります。                 (『三国志と人間学』より)







文と武


 「武」の字が「戈を止める」という二字からなっているという説と同じく(中略)一般的にいって東洋人の武に対する考え方は、決して暴力の行使ではなく、それを止めることにあったことがはっきりわかる。

 今日は、武といえば暴力の行使であると誤って考えられている。(中略)徳川時代の碩学である静岡の山梨稲川という人がある。この人はその学問からも、人間からいっても非常に偉い人で、(中略)この人の説によると、文と武との相対的な考え方を数歩進めて、次のように説いている。


 従来は文と武とを対立的に、相対的に考え、武はどちらかというと暴力の行使であり、文は平和の象徴であって、往々にして相容れないものであった。そしてどうも文に流れると文弱になり、武に流れると暴力になる、という両方の持つ弱点を補うために、文武は車の両輪のごとく相伴うべきものであるという程度に過ぎなかった。 

 稲川はこれを更に進めて、武はそういうものでなく、人間の現実は色々の邪悪の力と戦わねばならない。それが人間の避けられない現実の姿である。その邪悪の力と戦って、我々の生活・理想を一歩一歩作り上げてゆく実践力——それを武というのだとしている。


 甘い感傷的な空虚な観念に逃げてしまわないで、どんなに骨が折れても何らごまかさず、着々と現実を浄化してゆく。雨雪風雷と戦って若木が伸び、花が咲き、やがて実を成らせるように、現実の中から文化の華を開いてゆく実践力・努力を武というのである。

 だから武があって初めて文がある。武が本体である。したがって本当に文化の華を咲かせるような武でなければ、本当の武ではない、と非常に深く武を解釈している。

 これは兵学からいっても間違いのないことである。 

                   (『活学講座』より)






立身出世と子孫


 一番いかんのは、実力の無い人間が出世するということです。柄にもないやつが出世したりすると、ろくな事はない。人間は実力から少し控え目ぐらいの出世をすると一番穏当なんです。


 古人の書物の中には、非常に立派な人が世に合わないで、時節に恵まれないで不運のうちに終わるという事は、子孫のために非常によい事だと説いておる。そういう人の子孫には、幾代目かには、必ず偉大な立身出世する人が生まれる。

 これに反して、柄にもないやつが大臣になったり大将になったりして時めいたやつの子孫は、意外に早くろくでもないやつになってしまう。成る程、「売家と唐様で書く三代目」なんていう事がある。これは実に面白いといえば面白い。厳粛といえば厳粛、非常に考えさせられる事であります。


 皆さんもこういう哲学をやるとよろしい。非常に助かりますよ。倅に教えてやる事が出来るでしょう。

 「わしはもっと偉くなるべき人間であったが、お前等を思うてこれぐらいでおいといた。」と考えればよい。そして、「くだらない世の中の為に、立身出世してあくせくと働くような時間を俺の学問修養の方に振り向けたので、これがやがてお前等に影響して、お前か、お前が馬鹿なら孫か、曾孫かに又偉いやつが出る。」

 これは実に厳粛な理法です。そう考えたら安心して貧乏も出来る。安心して下位に甘んずる事も出来る。こういうのが、東洋哲学の立派な男児です。

(講演録『東洋哲学と生活維新の道』より)





日本の過去と将来(3)


 一たび武器を捨てさせられた日本は、チャーチル、ルーズヴェルトの大西洋憲章を証拠に、いつか自ら実力を以て自己はもちろん、世界の武器を捨てさせるまで徹するがよろしい。それには今迄怠慢に過ごした道義と文化とに精進すると共に、日本が世界各国に「萬世の為に太平を開く」という詔勅を発せられたことを空言にせぬ大理想を失ってはならないのです。そこで私はまず誰でも行い易いわれわれの卑近な実践要領を提唱いたします。


. みだりに他を批評するより、人と共に善を楽しむ協和の美風を養
   うこと。

. 安易な追従生活や共倒れの悪風を排し、何事にまれ独立独行の気
  風を涵養すること。

. 社会的施策に待つことよりも、自治を重んずるようにすること。

. みだりに革命を謳歌せず、常に自ら維新してゆくこと。

. 社会各方面の用人者は機械的形式的に人を採用することを改め、
   できるだけ自由且つ人物本位にすること。 

. 有力者は力めて海外に活眼を放ち、世界 旅行各国士との社交、国
  民の世界的趣味の涵養などを盛んにすること。

. 閲歴声望のある人士は力めて郷土に帰り、郷党の名誉職にもな
   り、特に郷土の振興、風俗の刷新に尽瘁すること。

. 功成り名遂げた人は力めて新進の人材を推薦し、自ら退いて顧問
  に備わり、一は後進の抑鬱を去って事業に清新活発の気を興し、
   一は後進を誨導して大局を誤らぬようにし、大人自身は閑を得、
  真を養い、人生を楽しむ修養をせねばならぬこと。

. 祖国と同胞との危急に当たっては身を挺してその護持に努力する
  こと。

10. 常に後進を誘掖し、潜かに陰徳を積むことを心がけ、世界人類永
  遠の平和と幸福を祈念すること。      〈了〉

(『この国を思う』より/昭和29年)





日本の過去と将来(2)


 ヨーロッパにおける西独と、アジアにおける日本とは、今日早くも着々と国力を回復し始めて、世界二大対抗勢力の消長を左右する微妙な立場を占めるに至っております。日本の政治家も学者も活眼を放って、国民と共に、この危機に善処せねばなりません。空疎な中立論や、平和論や、無知な無抵抗主義で無事に済むものではない。日本の有力指導者はむしろ日本とアジアに関する限り、積極的に英米の蒙を啓いて協力してゆくだけの正義と智略とがなければならないのであります。


 大正以来日本は、悪魔に魅せられたようにその本性を失って、驕慢や虚偽を恣にし、興奮と詭弁と煽動と阿諛との政治が国家を毒しました。そして空虚な精神主義、横暴な国家主義、頑迷な民族主義、低劣な民衆主義、貪婪な資本主義、非人道的悪魔的な共産主義などが流行して人間の基本的な正しい個人の自由と国家社会の統制とを双方共に歪曲してしまいました。

 

 今後日本の政治家はこの誤られた個人の自由と国家社会の統制とを円滑に調和して、愚かな醜いイデオロギー闘争から国民を救わねばなりませぬ。空疎で煩瑣な政治を革新して、国民の何人も嬉しく思うような親しい現実を造ってゆかねばなりませぬ。次回に続く

(『この国を思う』より/昭和29年)






日本の過去と将来(1)


 日本の過去は封建的で、すべて悪く、現在は欧米に敗れた劣等貧弱国であり、将来はアメリカやソ連中国などにどうされるか分らぬ暗黒のように自暴自棄的な考えを持ってはなりません。(中略)

 日本の敗戦と終戦後の堕落はまことに恥ずかしいことに充ちたものでありました。しかしながら死屍に鞭打つ気持ちを少なくし柔げて、冷静に観察すると、その間に行われている同胞のけなげな美しい精神や行動の数えきれない事実を発見することができます。

 戦犯裁判に関しても厳正公平なインドのパル判事は該博な専門的知識を傾け尽くして、裁判は正義でなければならぬこと、戦勝国は敗戦国に憐憫から復讐までどんなものでも与えることが出来るけれども、与えがたいものは正義であること、時が熱狂と偏見とを柔げた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剝ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところをかえることを要求するであろうということを痛論して、全被告は無罪であり、起訴事実の全部から全員即時免除されるべきであるという判決を主張したことは世界の心ある人々をして真に襟を正さしめました。

 われわれは自責と共に、奮発と勇気と自信とを失ってはならぬのであります。われわれは常に悪を救うて善を勧めねばならぬ。禍を転じて福とせねばならぬ。(中略)

 日本の明日はいかにも重くるしい暗澹たる雰囲気がたちこめております。しかしながら未来はわれわれが創造するのです。正義と勇気とは神秘な創造力です。次回に続く

(『この国を思う』より/昭和29年)





伝 家 宝


一、 我が幸福は祖先の遺恵、子孫の禍福は我が平生の所行にあるこ
   と、已に現代の諸学にも明らかなり。


二、 平生・己を省み、過ちを改め、事理を正し、恩義を厚くすべ
   し。百薬も一心の安きに如かず。


三、 良からぬ習慣に狎るべからず。人生は習慣の織物と心得べし。


四、 成功は常に苦心の日に在り。敗事は多く得意の時に因ることを
   覚るべし。


五、 事の前に在りては怠惰、事に当つては疎忽、事の後に於ては安
   逸、是れ百事成らざる所以なり。天才も要するに勤勉のみ。


六、 用意周到なれば機に臨んで惑ふことなし。信心積善すれば変に
   遭うて恐るゝことなし。


七、 不振の精神・頽廃せる生活の上には、何ものをも建設する能は
   ず。永久の計は一念の微にあり。





酒の飲み方


 酒の飲み方にも色々ある。酒量の多いのを酣酔(かんすい)。へべれけになるのが爛酔(らんすい)。乱暴狼藉を働くのを乱酔。陰気にふさぎ込むのを沈酔。しかし沈酔は人間学的に深い人物に多い。豪快に飲むのを豪(轟)酔。誤解し易いのが泥酔で、泥はドロでなく、南方で、日照りが続くと水中の魚が一塊の泥のようになる。水が出ると、又ピクピク動き出す。泥酔とはその状態をさしたもので、いくら飲んでも正気を失わぬ飲み方をいう。酒の飲み方一つにも、よくその人物が表れるものだ。


 人間の言葉で案外確かなものは“酔中の言”だといわれる。酔えば理性が麻痺するために本当のことを言う。しかしそれでは余りに真実で生々しいから、約束で醉中の言は取り上げぬことにした。古人の粋なはからいであるが、この醉態の中によくその人物を観ることができるものだ。




政党政治


 19世紀末のイギリスの歴史学者、バーカー(J.E.Barker)が『オランダ興亡史』の中で、領土だの物資だのというものがその国の偉大さに本質的の関係があるものではない。真にその国民の偉大さに関するものは、そんな領土や資源や貿易ではなく、国民の能力であり、国民の精神である。ことに後者の国民精神の問題である。これの旺盛な国民はどんなに困っても必ず勃興する。(中略)その意味において政党政治は、非常に注意を要する。国あることを知らず、ただ党あるを知り、その党よりも実は己の利を図るばかりというように、政党が堕落してオランダは衰退してしまったのだ。だからどうしても己より党、党よりも国家という精神に燃えた政党員を作らなければ、到底政党政治というものは国民のために危い、ということを痛切に論じております。

 それがそう行かずにだんだん悪くなると、どうしても革命を招来する。革命というものはやむを得ざることであるが、無条件で肯定できない。非常に注意を要するものです。警戒を要するものです。ところが行き詰まって来ると、革命が要求されるために、何か革命といえば無条件に礼讃される傾向があります。これは間違いで、できるだけ革命は避けたが宜しい。やむを得なければ革命もなければならないが、それはあくまでも正しく賢明に行われねばならない。

 (『この国を思う』より)





国境を超越した

新しい忠誠心はあり得るか


 国家とか民族などと言えば、すぐに夜郎自大的、排他的民族主義、侵略的帝国主義と即断して反感を抱くものが多い。それらの人々はそういう民族国家を超越した世界国家、あるいは世界政府の実現を要望する。これは是非とも次のような真実の言葉に自ら深省せねばなりません。社会学界の泰斗ソローキン教授が指摘しております。

 「一人の人間を熱烈に愛することも出来ないくせに、ちょっと見たところ全人類を愛するようなふうをする多くの人々がある。彼らの人類愛は非利他的な、無関心に殆ど近い程稀薄なものであり、骨も折れず、且つ実践され得ないものである。熱もなく、冷もなく、彼らは自己主義者と低級な利他主義者との境界線を占めている。」

 「人間は自分がその一員であるところの集団に対して進んで自己を捧げようとする忠誠心Loyalityが本能的基礎を持っていることを認め、今日では出来ることなら民族国家の国境を超越する新しい忠誠を生み出すことが最大の重要ごとであるが、そういうことが果たしてどれほど出来るであろうか。(中略)それにはまず第一に各国の指導的立場の人々、次いで民衆が、長い再教育の過程を経なければならない。しかしこういうことが起こるのはまだまだ前途遼遠である。キリストが汝己のごとく汝の隣人を愛せよと言ってからすでに1900年余になる。いったい今後なおどれだけ多くの歳月を経たならば、人々はこの言葉こそ確かな助言だったと考え始めるであろうか。」

 一片の感傷や観念や、遊戯にすぎぬ気分的空想的人道主義はだめであります。今日の現実はそれに対して甚だしく冷厳であり、過酷であります。まず自国、自郷、自家から愛することができねばなりません。

(『この国を思う』より)



教育学問


 現代の危機を克服するものは結局教育学問であります。徹底的に言えば、われわれが今日誇っている科学や技術や産業の発達と匹敵するような道徳的精神的人格的発達がなければ、この文明は救われないのであります。教学の使命は厳としてここにあると信じます。すなわち教育者は真の人間を作るように子弟を教え導かねばなりません。真の人間とは、いかなる地位に置いても信用せられ、またいかなることでも容易に習熟する用意の出来ている人々、苦悩している人類に敬愛と希望とを与える人間のことであります。

 しかるに近代の学校は、肝腎のこの人間を作ることを閑却して、雑学末技に走り、教師と学生との間は疎遠になり、不真面目になっております。






財政経済


今日財政経済を以て日本の将来を決定すると思う者があるならば、それは本当に財政経済を知る者ではありません。時代を動かす最も根本的動力は常に精神的道徳的努力であり、深い精神的情操的生活が総ての物質的生活問題の有効適切な解決を助けるのであります。この意味において誠に「義は利の本」であり『春秋左氏伝』、「利は義の和」であります『易経』

(『知命と立命』より)





本当の学問


徳慧の学問、即ち広い意味において道徳的学問・人格学、これを総括して「人間学」というならば、この人間学が盛んにならなければ、本当の文化は起こらない。民族も国家も栄えない。


本当の学問というものは、立身出世や就職などのためでなく、窮して困(くる)しまず、憂えて心衰えず、禍福終始を知って、惑わないためである。荀子


学問・道徳・宗教を修めるということは、人間がもっとも人間らしく、もっとも自然、真実に錬成されることであり、人間を廃業することではない。


新しい時代を創造するような人物は、知識の学問や技術の学問からは生まれない。やはり智慧の学問、徳の学問、そういう教育の中から出てくるのである。


我々は何のため学ぶのかといえば、第一に自己の自主性・自立性を錬磨し、自由を確立することであり、それによって発達する自己を通じて世のため人のために尽くさんがためである。 (『この国を思う』より)







六中観


死中活有り

苦中楽有り

忙中閑有り

(こ)中天有り

意中人有り

腹中書有り


1 壺中天有り—人間はどんな境涯にあっても、自分だけの内面世界はつくり得る。世俗生活の中にあってどんな壺中の天を持つか…。

2 意中人有り—常に心の中に人物を持つ意。或は私淑する偉人を、或は共に隠棲できる伴侶を、或は要路に推薦し得る人材を…、というようにあらゆる場合の人材の用意が出来ていること。

3 腹中書有り—血の通った学、心身を養って経綸に役立つ学問をすること。目にとめたとか、頭の中のかすのような知識でなく、腹の中におさまっている哲学のこと。





四不忘


一、 嗜欲しよくの為に身家しんかを亡ぼすなかれ。


二、 忿争ふんそうの為に事業を亡ぼすなかれ。


三、 学術の為に人間を亡ぼすなかれ。


四、 政権の為に祖国を亡ぼすなかれ。


 嗜欲=欲望のままに好きなことをして楽しむこと。

  また、その心。

 忿争=怒り争うこと。





悪に対応する道


 思想・道徳は観念の遊戯ではなく、厳しい実践でなければならない。悪についても、いくらでも議論はできる。しかし、現実の悪というものを独りよがりの論理的思考で批判しても何にもならない。身体で対処せずに空論してゆくことは無力である。


 悪に対応する道に五つある。


 第一は弱肉強食という事実で強い者に負けるということ。


 第二は暴を以て暴に易(か)える、つまり復讐的態度をとることである。これは際限のない修羅道だが、泣き寝入りするよりはまだ人間的な境地といえる。但し解決にはならない。


 第三に、復讐的態度とは逆に宗教的態度というものがある。キリストの「汝の敵を愛せよ」、あるいは孔子の「寛柔以て教え、無道に報いず」だ。だがこれは非常な人間の修練を積んで後に到達する境地であって、決して軽率に実践し得るものではない。


 第四に偽善的態度がある。弱者も自己の無力を口惜しく恥ずかしく思う、その良心と他への面目を瞞着するために、聖者の宗教的心情を仮りて体面をつくろうとするものだ。とかく知識人と称する者がこれに陥り世に流行する。だが人間として最も卑屈で忌むべき態度であることを知らねばならない。


 第五に〝武〟というものがある。武は本来〝戈(ほこ)〟を〝止〟める意味だが、どこまでも悪を排し、悪であればあるほど人をその悪から救おうとする。これを〝尚武〟という。人間が悪に対して到達した最も実践的で真実な態度である。


………………………………………………………

尚武的態度

 これは、暴力的復讐的態度とちがって、あくまでも暴力を否認し、人間の平和と幸福とを願うが故に、どこまでもこれを妨げようとする暴力の罪を憎んで、その人を憎まず、むしろその人を救う為に、その暴力を懲らしめて封じ去ろうとするものである。

 「武」という文字が即ち、凶器を意味する「戈」と「止」めるの二字から成り立つものとするのが通解である。だから本来武備とは他国を侵略する用意ではなくて、防衛の手段である。武備の中には兵力・機械力・経済力・政治力・精神力が総て含まれねばならない。




春の日本

─何をするかより、いかにあるか─

皇國のとしのはじめのいのりには

貧しき人に恥あらしむな

(岡野直七郎)



 誠に好い歌である。いつも新年に思い出す歌である。こういう祈りを持つことは何より人間に大切なことで、人は良いことをするのも大切であるが、そういう行為の前に、良くあることの方が大切である。自らいかなる善行を為すかhow to do good の前に、いかに善い自己であるか how to be good を反省したい。世間的な善事は案外小人や奸物が行うものである。

 このごろの世の中は形式や機械的なことが盛んになって、中の心情の方が無視される為に、おもしろくないものが多い。


 経済的繁栄も結構であるが、真の国家的国民的目標は偉大な精神的文化的進歩向上にあるのであって、経済はその為に必要な基盤に外ならない。経済が第一義ではない。


 敗事多く得意の時によるのである。真の繁栄と偉大とは単なる領土の広さや、資源の豊かさや貿易の多寡によるものではなく、国民の能力と精神、特に精神によるものであることが案外気づかれていない。

 勝れた精神、美しい感情、立派な秩序協和、これらがあらゆる物質的経済的問題を解決し、それによって真の幸福が得られるのである。

 我々は偉大な経済的繁栄の裏づけとして、必ず頼もしい精神的充実を計らねばならぬ。       (醒睡記)



日本人の心の奥底にあるもの

 私は久しい以前から、心中深く、日本人の思想信仰は結局この神道に極まると信じている。日本の神道は「生」に徹したものであり、神と人とを一体とし、自然と人間とを渾融し、永遠の脈搏を保つところのものである。

 最も日本的な宗教家であった黒住宗忠が、「神道は生きることばかりでよろしいと思う。仏とはうらはらのことと思う。何もかも時々刻々に物を生かすところこそ天照大神の御道と思う。」と、人に与えた書翰に説いているが、実によく神道の本旨を伝えている。


 伊勢神道の偉人渡会家行の教えを受けた坂士仏は、その大神宮参詣記に、「当宮参詣のふかい習は、念珠をもとらず、幣帛をもささげずして、心にいのるところのないのを内清浄という。潮をかき、水をあびて、身にけがれのないのを外清浄という。内外清浄になれば、神の心と我が心とへだてはない。すでに神明と同じければ、何を望んで、祈り請う事があろう。これ真実の参宮であるとうけたまわって渇仰の涙がとどめられない。」と記している。ご利益宗教、観念宗教と全く異なる所である。

 日本人の心の奥底には皆この魂があるのである。  (醒睡記)



年頭清警

一 残恨残念なことを一掃して氣分を新たにする。

二 舊習ふるい習慣を一洗して生活を新たにする。

三 一善事を発願して密に行ずる。

四 特に一善書を擇んで心讀を續ける。

五 時務を識つて自ら一燈となり一隅を照す。




年を送る

 今更思うも陳腐なことであるが、やはり何時になっても新しいのは歳暮の感である。


  質ならで 今日を限りに 流れゆく 年は
  暮れぐれ 惜しきものかな


 江戸趣味の一つの洒落で、おもしろくもあり、どこか軽薄な厭味も感ぜられる。


  玉くしげ 明けぬ暮れぬと いたづらに 
  ふたたびも来ぬ 世をすぐすかな


は木下長嘯子の歌であるが、厭味がなく、やはり、同感を禁じ得ない。殊にこういう世界的危機に際して、雑然紛然と過してしまった一年は、何ともくやまれてならない。しかしまたアメリカの詩人ウィシャートは慰めてくれている。

  昨日は一つの夢である。

  明日は一つの希望に外ならぬ。

  今日を善く生きる時、

  昨日の総ては楽しい夢となり、

  明日の総ては輝く希望となる。

  されば今日に目を注げ──と。

 そう思って、今宵の一時、気を安らかに静坐していると、サーッと言う木枯の音、ハラハラと窓打つ木の葉、シンシンと身に沁む寒さまで、またおのずから一種の情境である。かつて八代城山翁の書翰に、寒夜北風襲ひ、落葉の窓を撲つを聞けば、神気凝然、道骨自から清きを覚ゆとあったが、真に冬夜を把握したものである。そう言えば敬慕する幕末の哲人山田方谷の作にも、

  頽壁 雪三尺

  寒空 月一輪

  堅凝 天地の気

  聚まつて読書の人と作る

という詩があった。一誦してそれこそ神気の凝然たるを感ずる。誰の句であったか

  秋の夜や物習ふなら今の中

という句を心に印しているが、年の暮れるごとに、「物習うなら今の中」とますます思われてならぬ。      ──26.12── (『新憂楽志』より)




「西郷南洲遺訓」より

政 府

 政治に関しても、「国の凌辱さるるに当っては、たとえ国を以て斃れるとも、正道を踏み、義を尽くす」のが政府の本務である。しかるに南洲は「金穀や理財の事を議するを聞けば、どんな英雄豪傑かと見えるが、血の出る事に臨むと、頭を一処に集めて、ただ目前の苟安を謀るばかり、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜すならば、商法支配所というもので、さらに政府というものではない」と論じている。今日も一番痛い処を衝かれた感じである。 

外 交

 「正道を踏み、国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん」

 これこそ現在及び向後の日本の政府並びにあらゆる指導者たちの迷いを救って、決意を固めさせるありがたい策であると思う。各地各界において大いに南洲を追憶し、顕彰してもらいたいものである。

 ──────(『新憂楽志』より)



自分を省みる

いつしかまた秋になった。

虫が鳴いている。

風の音、確かに秋風の声である。

人の世の中は何という騒がしさだ。

なぜ人間はこうも騒ぎ回らねばならないのだ。

なぜもっと独り静かに在り得ないのか。

ぐずぐずしていると、どうなってしまうか分からないとでもいうのか。

がやがや騒いで、さてどうなるというのか。どうなったらよいというのか。

誰もが自分のことは棚にあげて、人のことばかり攻め立てる。

せめてその半分でも自分を省みれば、どんなに物事が素直に運ぶことであろう。

 ──────(『新憂楽志』より)



義に疎く小ざかしい人間 30

子曰く、群居終日、言、義に及ばず、好んで小慧しょうけいを行う、難いかな。(論語、衛霊公第15)

 痛い言葉ですね。何とかクラブというような所へ行ってみるとよくわかる。忙しい忙しいと言いながら大勢集まって、あちらで碁を打っておるかと思うと、こちらではつまらぬことをべらべらしゃべっている。折角の会合だからと行ったのに、いつまでたってもそれらしい話が出てこない。そうして小智慧のまわるようなことでお茶をにごしている。これらは日常始終経験するところです。

 つまらぬことには小才がきくが肝腎のことはさっぱり役に立たぬ人間は困ったものだというのです。(活学)



絶えざる維新 27

 菜根譚に「事窮まり、勢蹙ちぢまるの士は当に其の初心を原たづぬべし。功成り、行満つるの士はその晩節を観るを要す」とある。

 その人生の行路が行き詰ってしまって、勢も蹙まり、意気があがらず、どうにもこうにもぺしゃんこになってしまったときは、そこでへこたれず、必ず元気であった初心を原ねよ。そうすれば新しくまた出直すことが出来る。「功成り、行満つるの士」はその末路を考えなければならぬ。

 こゝでやれやれなんて思うと、老いこんでしまったり、あるいは有頂天になって馳ゆるんでしまう。その時は、どうしたら晩節を全うすることが出来るかと思索せよ。

 これが易を学ぶということだ。(活眼活学)



神の道と人の道 24

度会家行(わたらいいえゆき)の「類聚神祗本源(るいじゅうじんぎほんげん)」に「志す所は機前を以て法と為し、行ずる所は清浄を以て先と為す」と言っておる。

 機前とは、一日で言うなら、日が出て鶏が鳴き出す、人間世界のいろいろな営みが始まる、こういう働きを機というから、その前で、暁であり早朝である。

 一年では「神代(かみよ)のことも思はるる」という元旦。人間で言うなら幼児。地球でいえば混沌(こんとん)、太初である。

 夜明けは実に静寂で、光明で、清浄である。明るく、静けく、清い。伊勢神道はこれを本領とするもので、機前を以て心と為し、諸々の汚れや俗気を斥けて、神氣を嘗(な)め、正直清浄を行ずるのである。(神の道と人の道)



秋に入って 21

 秋になった。天運・時運といふものはいかにも健である。易経の最初に天行健。君子以て自強(彊も同じ)息(や)まずとあるが、人間は一の自然であり、自然の生物であるから天行健なるが如く人生も健でなければならぬことは当然である。

 秋気は清い。従って人間も清健を要する。汚れ濁ってはならない。

 清健といふことは絶えず自分を汚さず濁さずに元気よく生きてゆくことである。よどみ・よごれ・くさるのが一番いけない。世をあげて公害をやかましく言ってゐるが、その割合に私害・自害に気がつかぬやうである。もう少し人間が、私害・自害せぬやう、清く明く健やかに力めてゆけば人の世の中はどんなに善くなってゆくことであらう。道は近きに在り、いかにも外見(よそみ)などせず、坦然たる大道を闊歩することだ。

「時は最大なる革命家なり。(F・ベーコン)」(昭52.9)



病める日本への警告 18

 プロシャの有名なモルトケは言った。「永久平和は夢だ。そして戦争は世界秩序を構成する際の一要素である。戦争で、人間の最も高貴な徳が発揮される。勇気、克己、義務感、生命そのものを喜んで捧げる犠牲心などがそれである。戦争がなければ世界は唯物主義に沈没しただろう」

 冷厳なシュペングラーは断言した。「世界平和は大多数の者が抱く私的な戦争放棄ということを含むと同時に、戦争を放棄しない他国の餌食になる用意もその中にひそかに含まれている。平和主義とは非平和主義者に支配を委ねることである」

 「現実の歴史にはいかなる和解も存在しない。和解を信ずる者は狂乱する事件の前に永遠の恐怖を抱かねばならぬ。条約によってこれを祓い鎮め得ると考えるのは、ただ自己欺瞞に逃避するにすぎぬ」(『大和』より)



東洋の人物と

「樸・拙・愚・狂」 15

 東洋では、愚だとか、素だとか、樸だとか、拙だとか、こういう人間内容を非常に尊重する。

 これはつまり近代的末梢化、人間としての枝葉末節に走ることを厭うて、より多く生命、実在の根元を守ろう。枝となり花となり、実となり、葉となる末梢化を避けて、より多く幹となり根となって、常に全体性、永遠性、無限の創造性を尊重する、それを体現する。こういう思想信念、従って見識、風格というものを表わす言葉です。

 それは利口な才智・藝能、或はたわいもない功利・効用、そういうものに走る者からいえば、なまくらに見える、馬鹿に見える、狂にも見える。そこで、あいつは馬鹿だ、あいつは拙だ、鈍だ、愚だ、何だ彼だと、軽薄で小器用な小才子が悪評をする。そこで結構です。私は愚でございます、鈍でございます。つまり“俺は馬鹿だからな”といって自慢するのも一寸気概ある者の常識になっております。(三国志と人間学)



新年の解 12

新といふ字を知らぬ者はない。然し新といふ字の真の意味を解する人は案外少い。元来この字は「辛」と「木」と「斤」との組合せである。

 即ちよく木を愛し育て、それを努力して加工し、新-あらたなものにして活用するといふことを表すものである。こんな深い正しい意味を知らないで「あたらしがりや」など、目先の変った、ものめづらしいといふことに軽々しく解するのは、とんでもないことである。

 本當に新しくするのには大した用意と努力を要するわけで、新人などざらにあるものではない。年の始に勉強せねばならぬことは、先以って自己をどう維新するかといふことである。



第一等の人物 9

 明末の哲人呂新吾に呻吟語があり、心ある人々の教養の書として愛読されている。

 「深沈厚重は是れ第一等の資質。磊落豪雄は是れ第二等の資質。聡明才弁は是れ第三等の資質。」

 どっしりと深く沈潜し、厚み、重みがあるのは、人間として第一等の資質である。大きな石がごろごろしているように線が太く、物にこだわらず器量の大きいのが第二等、頭がよく才が有り、弁が立つというのは第三等の資質であるというのである。

 大抵はこの順序を逆に考えて、聡明才弁が一番偉くて、深沈厚重をまるで鈍物のように思う。が、それは世俗のことで、本当はここに言われる通りである。聡明才弁の人は、とかく鋭角的になり過ぎる。従って磊落豪雄になれるように修養しなければならないが、そうするとどうも人間に氣負いが生ずる。だから深沈厚重の徳を養うことを第一にしなければならない。この徳を養うて始めて本当の磊落豪雄にもなるわけで、そうでないと似せ豪傑のようになってしまうと言っている。人間学の典型的な名論である。(活学第三編)



緑陰茶話 6

 茶話といふと、たわいない話のやうに思ふ人が多い。然し本当は酸いも甘いも知りつくした苦労人の、しかも淡々として、何とも言へぬ妙味のある人の話のことである。

 人間も味のある茶話ができるやうになれば大したものなのだが、この頃の世の中は特につまらぬ駄話が多い。議会なども何とむだの多いことか。人生然るべくむだを省くことができれば、それこそ余裕綽々であらう。余りにこせこせした、騒がしい今日この頃の世の中の事件や世間に、真の茶話のできる文字通り苦労人が多くあれば、いかに裕かになることであらう。孟子所謂綽々然として余裕ありといふ語を今更の如く思ひだされるのである。

 何事も学問の種ならぬはないが、この頃しばしば時習といふ語の切実な意義を覚える。時は時々といふやうな俗解とは異って、何かにつけて、その時その時の体験をうかうかと済まさずに、切実に活用することである。さすれば一切が活学である。これを時習といふ。

 習といふ字の羽の下は雛鳥の胴体である。雛鳥が巣を離れて羽をひろげ、親の飛ぶのを実習する形を表したものである。かういふ時代も之を思へば、すべて実学ならぬものはない。之を覚らせるのが真の活学・活教育といふことができる。

入学試験の勉強などを学習と思ふのは話にならぬものである。

 文字を正しく学ぶこと、従って教へることは大切である。たとへば政は正也といふ。政は正すことだといふのである。今時の政はいかに不正であることか。故に政治は不政治となる。やはり正しい人々に依らねば世の中は治まらない。

 これも決して迂遠な話ではない。正人を政界に出すのが真の選挙といふものである。やがて又選挙が始まるであらう。

 「世の中は左様でござる御尤も何とござるかしかと存ぜず」では遂に救はれまい。



師友信條 3

1 常に身体を清浄にしよう

2 常に精神を清浄にしよう

3 常に居住を清浄にしよう

4 常に家庭を清浄にしよう

5 常に立処(事務所・会社・工

  場・役所・学校等)を清浄に

  しよう

6 常に世間(見聞・往来・交

  際・執務等)を清浄にしよう

7 常に国家(政治・経済・教育

  等)を清浄にしよう

8 常に人類の清浄を愛奨しよう

  神・儒・仏をはじめ諸教ひと

  しく清浄身を現ずることを旨

  とする。

 我等もし能く一切の虚栄と怠慢とを戒めて、斯の清浄行を励むならば、

 おのづから一切を化して真の幸福に導くことも決して難しくはない。

安岡正篤略歴ryakureki.htmlryakureki.htmlshapeimage_9_link_0
安岡正篤TOPyasuokapage.htmlyasuokapage.htmlshapeimage_10_link_0
安岡正篤年表nenpyou.htmlnenpyou.htmlshapeimage_11_link_0
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